真田信繁が大阪冬の陣で大阪城を守るために築いた出城の真田丸の場所は謎でした。下の写真の三光神社に真田丸があって銅像の横にある穴が大阪城まで続いている抜け穴だという伝説もあります。

しかし調査が進み、真田丸はもう少し西の明星学園高校の敷地にあったというのが現在の定説です。最近、高校の外壁に真田信繁の壁画が描かれ、外には真田丸があったことを記した碑が作られました。

大阪冬の陣では真田丸で徳川軍を食い止めダメージを与えて実質的には勝利した豊臣軍でしたが、徳川家康の策略で和睦と称して真田丸は破壊され、城を守る堀も埋められました。
そんな状態で次に大坂夏の陣を戦うことになってしまいました。今度は真田信繁は現在の天王寺公園の茶臼山(下の写真)に陣を構えました。

このとき真田信繁は家康の本陣に攻め入りあと一歩まで追いつめたものの、結局は豊臣秀頼の援護がなく、敗走し自害しました。
自害した場所は茶臼山近くの現在の安居神社と伝わっています。

境内には銅像と碑が建っています。

大河ドラマ「真田丸」のラストで堺雅人扮する真田信繁が「ここまでだな・・」と座り込む場面がありましたが、今の安居神社とよく似たセットでした。
当時の大阪城は北・東・西は川や湿地で防御されていましたが、上町台地の南側が陸になっていて弱点でした。現在の上本町から天王寺あたりです。そこを懸命に守ったのが真田信繁でした。

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