秀吉に翻弄された秀次の山城

1585年に豊臣秀吉の甥・豊臣秀次が築いた滋賀県近江八幡市八幡山城です。
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城は標高283mの八幡山に築かれましたが、現在は建物は残っておらず、石垣が残るだけです。
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下の写真は西の丸跡からの風景です。琵琶湖とその向こうに比叡山が見えます。当時は麓まで琵琶湖でした。
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西の丸跡から歩いて2分で出丸跡に着きます。ここからは城下町のようすが見えます。
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秀吉の姉の子である秀次秀吉の後継予定でしたが、秀吉に秀頼が生まれると、謀反の疑いをかけられて、高野山に追放されたあと自害に追い込まれました
本丸跡には村雲御所瑞龍寺というお寺があります。秀次の母が秀次の菩提を弔うために京都に創建し、1961年ここへ移築されました。
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山頂まで行くロープウェイは15分間隔で運行されています。登山道が整備されているので麓から歩いて登ることもできます。
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豊臣秀次秀吉の命令で切腹させられ、この城も築城10年で廃城になりましたが、切腹の真の理由については諸説あります。
秀次の妻や側室も、秀次の首が晒される前で処刑されるひどい仕打ちを受けており、秀吉を描くドラマでもいろいろな視点で描かれる事件です。ただ今回の大河ドラマどうする家康」では家康がメインなので、秀次事件は扱われないようです。

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光秀の胴と首の行方

本能寺の変のあと、秀吉との山崎の合戦に敗れた明智光秀は近江の坂本城へ敗走中、現在の京都市伏見区小栗栖の藪の中で落ち武者狩りに遭い殺害されたとされています。
家来は切断された光秀を埋めたものの、掘り出され秀吉に差し出されたと言います。

その明智光秀の胴を供養する碑が殺害されたといわれる明智藪の2kmほど北にあります。
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明智光秀の「胴塚」は昔からあったそうですが、昭和になって石塔が建てられ、その後今の場所に移されたとのことです。
コイン精米所のとなりの交通量の多い道路の脇にひっそりとありました。
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それに対して「首塚」はさらに離れた京都の三条にあります。風情ある白川のほとりに「餅寅」という和菓子屋さんがあり、その横の路地を入ります。
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路地を10mほど入ると小さな五重の首塚があります。
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首塚の前には小さな祠が建てられています。維持管理されているのは路地入り口の和菓子屋さんだそうです。
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亀岡の谷性寺にも光秀の首塚があり、墓もいくつかの場所にあります。それぞれに真偽のほどは定かではありません。
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そうだとしても、首塚がこのような目立たない路地裏にひっそりとあるのはやはり謀反人としての扱いなのでしょうか。

いよいよ「麒麟がくる」も日曜日で最終回です。明智光秀は死なずに生き延びて徳川家康から光秀までを陰で支えた南光坊天海という僧になったという伝説もあります。家光の「光」の字は光秀からとった、徳川家光の乳母お福(のちの春日局)は光秀の重臣斉藤利三の娘である、徳川家康が祀られる日光東照宮の近くに明智平という地名があることなどが根拠とされています。
さて大河ドラマでは光秀の最期はどのように描かれるのでしょうか。


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低くなった堤防跡

前回紹介した備中高松城跡を訪れていたとき、遠くに大きな鳥居が見えたのでその方向に行ってみました。着いてみると近くにある最上稲荷の大鳥居だとわかったのですが、鳥居のすぐ近くに「蛙ヶ鼻(かわずがはな)築堤跡まで600m」という案内板を見つけました。
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蛙ヶ鼻堤備中高松城を水攻めするために築いた堤で、本丸の高さと比較する表示が高松城址公園にありました。
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下の写真がその蛙ヶ鼻築堤跡です。秀吉はここから3キロにわたり高さ8mの堤防を築いたとされています。これを短期間で築いたのですからすごいです。現在は土砂が工事で持ち出されるなどして大部分は消滅しています。
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下の写真が堤防の唯一残った史跡です。現在は低くなっていますが、当時は高松城本丸よりも1.4m高い堤防でした。
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堤防の上に立って備中高松城の方向を見ました。この広い水田や本丸が水没する様子を秀吉はここから見ていたのでしょうか。正面に見えるのが最初の写真の最上稲荷の大鳥居でさらに向こうに備中高松城がありました。
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近年の発掘調査で、築堤に使われたと思われる木杭や土俵・むしろ等が確認されました。
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場所はわかりにくいですが、最上稲荷の大鳥居をめざして来ると鳥居前に駐車場があります。私はそこに止めて歩きましたが、築堤跡にも数台の駐車スペースがありました。


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水攻めのち猛ダッシュ!

大河ドラマ麒麟がくる」もいよいよ大詰めです。
明智光秀本能寺織田信長を討ったとき、羽柴(豊臣)秀吉は現在の岡山市北区高松にある高松城を攻略中でした。

香川の高松城と区別するため、岡山の高松城備中高松城と呼ばれることが多いです。現在は公園になっていて、城の痕跡はほとんど残っていません。
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この城は羽柴秀吉水攻めの城として有名です。高松城址資料館(上の写真の白い蔵の建物)へ行くとそのときの様子がわかります。
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石垣は築かれず土塁によって築城され、周囲は低湿地帯で天然の堀になっていました。
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築城年代は不明ですが、秀吉が攻めていたときの城主は清水宗治でした。
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低湿地帯の中にあるため攻めあぐねていた秀吉軍でしたが、黒田官兵衛の案で周囲に堤防を築き水攻めに転じ成功しました。
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この戦いの最中に本能寺織田信長明智光秀に討たれたという情報が入ります。秀吉はそれを伏せたまま毛利方と和睦を結び、城主清水宗治の切腹を見届けた後、明智光秀を討つために急いで軍を引き返しました。ここから京都まで10日で戻ったという伝説の「中国大返し」がこの場所からスタートしたわけです。


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三名閣をご存じですか

京都西本願寺にはいくつかの国宝建築物があります。
門をはいってすぐ見える2つの建物も国宝です。左が御影堂で右が阿弥陀堂です。
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南側にある唐門国宝です。伏見城の遺構ともいわれています。確かに派手な装飾は秀吉の好みです。
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下の写真は西本願寺の僧侶の研修施設である伝道院です。そもそもは明治に真宗信徒生命保険株式会社の社屋として建てられました。
これは重要文化財ですが、西本願寺と対照的なイメージのこの洋風建築も一見の価値があります。
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そして西本願寺で私が一番見たい国宝建築は飛雲閣です。
金閣銀閣と並んで「京都三名閣」といわれ、秀吉の建てた聚楽第の一部だという説もあります。
残念ながら普段は非公開です。ときどき特別公開されますが、私はこれまで見たことはありません。
塀の上から背伸びして撮影しました。やはり派手な色の装飾絵画が秀吉の好みですね。
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ちなみにちょうどこの日BS日テレ船越英一郎の京都の極み」という番組のロケをやっていました。後日このときのオンエアーを見ると、船越さんはこの飛雲閣の建物の中まで入っていました。うらやましい限りで・・
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会議で有名な城

愛知県清須市清洲城です。

織田信長が拠点とした城ですが、この城が有名なのはやはり「清須会議」でしょう。
本能寺の変で織田信長亡き後、その跡目を決めるために秀吉などが話し合った清須会議の舞台となった城です。

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ちょうど先週の土曜日に三谷幸喜監督の映画「清須会議」を延々3時間やっていました。映画に出てきた清洲城と再建されている写真の清洲城はかなり違っていましたね。
下の写真は天守閣からの眺めです。

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この日も紙芝居で清須会議の物語を説明されていました。最前列の男の子の食いつきがすごかったです。

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ところで「清洲」城「清須」会議「清須」市「清洲」小学校・・・と「清洲」「清須」が混在しています。
いろいろな経緯があるのでしょうが、ひょっとしたら地元の方も困惑しているのではないでしょうか?

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400年前の初代大坂城石垣が!

豊臣秀吉が築いた初代「大坂城」は、1615年の大坂夏の陣で落城後、徳川幕府が土を盛って埋め、その上に新しい城が築かれました。
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ちなみに現在の大阪城1931年に復元されたものです。

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秀吉時代の石垣は、1959年の調査で本丸地下から一部が発見され、さらに84年の調査で本丸の別の場所で大規模な石垣が見つかっています。
地下に眠る豊臣秀吉時代の石垣を発掘・公開するための資金を募るため「太閤なにわの夢募金」 というプロジェクトがあります。

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この3月7~9日の3日間、84年の調査後に埋め戻した石垣を再び発掘した石垣が公開されました。
この石垣は今の大阪城と違い、野面積みといわれる自然石をそのまま積み上げた石垣です。

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大坂夏の陣から400年となる2015年にはこの石垣を公開する施設をオープンする予定だそうです。
たぶん城好きのみならず、関西の多くの人たちが心待ちにしていると思います。

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清盛どうでしょう~

今年のNHK大河ドラマは「平清盛
松山ケンイチの健闘空しく視聴率は低迷しています。
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大河ドラマが放映されると主人公のゆかりの自治体はここがチャンスと頑張り、新しい施設を作ったり、新たな観光パンフレットを作ったり・・上の松山ケンイチの写真も神戸の「清盛ドラマ館」にある人形です。

大輪田泊のあったと思われている場所近くにも「清盛歴史館」が作られました。
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そもそも平清盛神戸にゆかりがあるといってもそんなに定着はしていないのでは・・
秀吉は「太閤さん」の名で定着していますが、清盛はややダーティなイメージがあります。あくまで主観です。
大輪田泊建築に使われたと思われる石やその近くの「きよもりくん」人形もひっそりとしています。
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