明智光秀が本能寺で織田信長を討ったとき、羽柴(豊臣)秀吉は現在の岡山市北区高松にある高松城を攻略中でした。
香川の高松城と区別するため、岡山の高松城は備中高松城と呼ばれることが多いです。現在は公園になっていて、城の痕跡はほとんど残っていません。

この城は羽柴秀吉の水攻めの城として有名です。高松城址資料館(上の写真の白い蔵の建物)へ行くとそのときの様子がわかります。

石垣は築かれず土塁によって築城され、周囲は低湿地帯で天然の堀になっていました。

築城年代は不明ですが、秀吉が攻めていたときの城主は清水宗治でした。

低湿地帯の中にあるため攻めあぐねていた秀吉軍でしたが、黒田官兵衛の案で周囲に堤防を築き水攻めに転じ成功しました。

この戦いの最中に本能寺で織田信長が明智光秀に討たれたという情報が入ります。秀吉はそれを伏せたまま毛利方と和睦を結び、城主清水宗治の切腹を見届けた後、明智光秀を討つために急いで軍を引き返しました。ここから京都まで10日で戻ったという伝説の「中国大返し」がこの場所からスタートしたわけです。

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