真田信繁(幸村)が大阪冬の陣で徳川軍と対戦するために大阪城の南に築いた出城が真田丸です。
しかし、この真田丸が正確にはどこにあったのか、なかなか特定には至りませんでした。およそは大阪環状線のJR玉造駅の西側あたりです。
2年前に行きましたが、改めて訪れてみました。
下の写真の三光神社あたりも真田丸跡地として有力視されていました。
確かにこの神社は真田山という小高い丘の上にありますし、「真田の抜穴跡」なるものもあります。ここに真田丸があったとしてもおかしくはありません。
しかし最近になって、ここ真田山は「柵で囲われた外郭」で、出城としての真田丸のあった場所はここよりもさらに西だったいう説が有力になってきました。それは現在、大阪明星学園のある場所です。
2年前にここへ訪れたときは何もありませんでしたが、今年初めに真田丸顕彰碑が作られたそうです。校舎の幸村の壁画も以前はなかったような・・
この学校の東沿いの道は急な坂になっており、いかにも高低差のある地形をうまく利用して出城が築かれた感じがします。
この道沿いには寺院が並んでおり、昔の絵図とも合致します。
その中の心眼寺は真田信繁・大助親子を弔うために建てられ、真田信繁の墓碑があります。
とにかくこのあたりの高低差は激しく、心眼寺も下の写真のように5~6m高い場所にあります。ここに真田丸があったのなら、確かに徳川軍も容易には攻めることはできなかったでしょう。
大阪明星学園の建設時にはここに真田丸があったと考えられていなかったわけですから、調査することなく工事が進んだのではないでしょうか。そうだとすると、いろいろな遺構が出ていても気が付かなかったかもしれませんね。
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